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第41回赤旗まつり |
母と作っている畑 その➊ |
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1958年12月8日、私は旧川里村(現在の鴻巣市)で商売を営む家庭の二女として誕生。父と母は人一倍の働き者でした。「まじめに働く」「苦労を惜しまない」「ひとのために尽くす」…父と母は私に教えてくれました。こうして私は、「流した汗がむくわれる社会」をつよく願うようになりました。
高校卒業後、県立川越女子高校の理科の実習教諭として4年間勤務。その後、県立行田養護学校へ異動。高等部の障がいを持った子ども達と18年間、とともに学び、ともに成長しました。障害児教育は、その後の私の生き方の「原点」となりました。
教育実践の向上、労働環境の改善を求めて、1978年、教職員組合に入りました。
そして、多くの仲間と教育実践を学び合いました。職場では、分会「ニュース」を毎週発行し、あたたかい職場づくりに力を入れました。埼玉県高等学校教職員組合女性部副部長として、女性の権利向上に力をそそぎました。
障がいを持った子ども達が、社会の形成者として生きるため、高等部教育では、「選挙」「憲法」「平和」の学習に力を入れました。私は、「障害者が大切にされる社会」「戦争のない平和な世界」をつよく願うようになりました。
そして、日本共産党と出会い、1988年8月15日に入党しました。
「反戦平和」を貫き、「主権在民」「民主主義」の旗を掲げて活動する日本共産党が、その後の私の生き方のよりどころになりました。
当時、町は共産党議員が空白でした。私は、立候補を決意。18年間の障害児教育にピリオドを打って退職。生徒や父母、同僚がお別れ会を開いてくれました。
生徒が手紙を読みました。「人生には『卒業』という字はじしょにはありません。かなしいときやつらいときには闘魂という言葉をわすれないでください」。こうして、私はたくさんの励ましを受けて、新しい道を踏みだしたのでした。
4月、初めての選挙。「福祉・くらし・教育優先の町を」「再び日本共産党の議席を」-まちの隅々まで訴えました。「騎西は梨の里」。梨の受粉作業中、大勢の方が声援。商店街では、自転車にハンドマイクを付けて演説。支持者に支えられ、初めての選挙戦を力一杯取り組みました。
そして初当選、党議員の議席を回復。24年振りに女性議員が誕生。
私は、2003年度の騎西町議会議員選挙に再び立候補。多くの有権者に実績と政策を訴えました。
そして、激戦を闘い抜き、当選。2期目の議員活動がスタートしました。
2007年4月、議員定数が18名から12名に削減される中、前回得票を大幅に増やして当選、3期目がスタート。
2008年9月議会で、騎西町を含む加須市、北川辺町、大利根町の1市3町の合併話が急浮上。前回は「住民投票」で白紙。しかし、今回は住民の意思を確認しないまま、2010年3月に合併し、騎西町の歴史に幕を閉じました。
私は、残った1年の任期を6人の党議員団の一員として活動。
2011年4月、新加須市の初の市議会議員選挙(定数32)に立候補。3月の東日本大震災で、市内でも3千棟以上の住宅損壊、公共施設や道路に多数の被害が発生。「災害に強いまちづくり」「合併から住民の暮らしを守る」の政策をかかげて奮闘。そして、得票を倍加し当選し4期目へ。現在、市民の声を大切に活動中!。
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